稲妻の痕に触れる
ある日ふと、自分の“輪郭”が曖昧になる瞬間がある。
名前を名乗るとき、肩書きを口にするとき、あるいは鏡を見たとき。
「これは本当に、自分なのか？」
そんな問いが、ひび割れのように胸の奥で軋む。
社会の中で生きることは、ある種の“仮面”を被ることだ。
善悪を信じ、常識に従い、神や制度を受け入れ、語尾に安心を添える──
その装いはあまりにも自然で、誰もがそれを“素顔”だと錯覚する。
だが、あるとき稲妻のような違和感が走る。
目の前の世界が、ぴたりと静まり返る。
空気が軋む。
誰も何も言っていないのに、どこかが崩れ落ちていく気がする。
そんな刹那がある。
この書は、その瞬間に立ち止まった者のためにある。
ニーチェという人間が抱えたのは、思想という名の雷だった。
それは孤独から生まれ、神を焼き、価値観を粉砕し、時間の輪郭すら変えてしまうような、危険で、しかし美しい閃光だった。
彼が遺した言葉は、哲学書というより、**焼け跡に残った“残光”**だ。
直接触れれば火傷するかもしれない。
だが、その光の痕跡に目を凝らせば、自分の“本当の輪郭”が浮かび上がってくるかもしれない。
あなたは、今どこに立っているだろうか？
信じていた神はまだ生きているか？
あなたの道徳は、あなた自身の手で鍛えられたか？
この人生を「もう一度繰り返してもいい」と言い切れるか？
ここから先に書かれているのは、問いの残骸であり、答えの欠片であり、そして──誰かの焼けた名刺のようなものだ。
世界の裏側にうっすらと残る焼き印を、掌でなぞってみてほしい。
そこにはきっと、あなたの名が、うっすらとにじんでいる。
第1章【裂ける空の音】──孤独という最初の閃光
ニーチェの哲学は“人と繋がる”中ではなく、“人と離れる”中で育った。
この章では、彼の“信仰の喪失”と“社会的孤立”という出発点を描く。
群れから離れた瞬間、あなたは何を見たか？
人はなぜ、群れを離れることにこんなにも怯えるのか。
“常識”という名の輪の中から一歩踏み出した瞬間、背後から何かが崩れる音が聞こえる。
言葉にしがたい不安。
それは、世界が“急に冷たく”なる感覚かもしれない。
だが──その静けさの中にだけ、見える風景がある。
ニーチェが見たのは、そういう風景だった。
孤立という名の啓示
1873年。19歳の青年が母親に宛てて、たった一通の手紙を送る。
「私は神を信じない」。
敬虔なプロテスタント家庭に生まれ、牧師の息子として育てられたニーチェにとって、それは“自分を捨てる”行為でもあった。
この一言で、家族との関係は壊れた。
母は泣き崩れ、妹は失望し、家庭内の空気は凍りついた。
以降ニーチェは、神を否定する者として、孤独な道を選ぶことになる。
大学に入ってもその疎外感は続く。
同世代の学生たちはワーグナーや神学論を熱く語り、目を輝かせて群れるが、ニーチェは輪の外にいた。
講義ノートには誰よりも深い思索の断片が残っているが、交友関係は異様なまでに乏しい。
唯一の同居人である兄が退学したあと、ニーチェの母が大学に送った手紙にはこう書かれている。
「息子をもう少し安い下宿に移せませんか」。
その文面は、経済的な厳しさだけでなく、“孤独を強いられた家庭の裂け目”を象徴している。
視界を塗り替える一撃
夜空が静寂に沈むとき、不意に稲妻が走る。
瞬間、全てが白く照らされ、見えてはいけないものまで露わになる。
それは美しいというより、怖い光だ。
そして──見てしまった者は、元の闇には戻れない。
ニーチェにとっての「神なき世界」も、それだった。
一度見えてしまえば、もはや目を閉じても逃げられない。
孤独とは、“視界が変わってしまった者”に訪れる、後戻りできない境界だった。
あなたは、どこに稲妻を探すか？
ニーチェが歩いたのは“誰とも違う”道だった。
だが、彼自身もその道がどこへ続いているのかを知らなかった。
それでも彼は進んだ。
なぜなら、孤独とは恐怖ではなく、光の痕跡だったからだ。
群れを離れて初めて、世界の“裂け目”が見えることがある。
そして今──
あなたの頭上にも、次の稲妻が走るかもしれない。
そのとき、あなたは
「見なかったふり」をするのか。
それとも──
「その裂け目の奥」を覗き込むのか。
「孤独」は、ただの状態ではない。
それは“別の視界に突入した者”にだけ許された、新しい問いの出発点である。
第2章【神の遺骸】──「神は死んだ」の現場検証
「神は死んだ」という言葉は、宗教の否定ではなく、“価値の土台”の崩壊を告げる警告だった。
ここではその社会的・歴史的背景を検証する。
もし“絶対の拠り所”が跡形もなく消えたら？
朝、目が覚めると、自分の名前が思い出せない。
部屋の中に、見覚えのある物が一つもない。
信じていたものが、ある日突然「存在しなかった」と宣告されたとき、人はどうなるのか？
それが“神が死んだ”という言葉の、本当の重さだ。
ニーチェは、すべての拠り所が消えた後の世界を見ていた。
そして彼は、そこに立って、こう叫んだ。
文明という十字架から降ろされた神
19世紀末、ヨーロッパではある種の“精神的な地殻変動”が起きていた。
天動説が否定され、進化論が浸透し、産業革命が「人間中心の世界観」に綻びを生んでいた。
教会の権威は揺らぎ、神の存在証明は“論理の問題”へと堕していった。
そんな時代の空気を裂いたのが、ニーチェのあの言葉だった。
「神は死んだ。神は我々が殺したのだ。」
だが、彼はそれをただのスローガンとして語ったわけではない。
その言葉は、彼が『悦ばしき知識』の中で描いた、ある“街頭の狂人”によって発せられている。
以下に、その一節を現代語訳で紹介しよう。
狂人の叫び（ニーチェによる寓話的描写より）
狂人が松明を手に市場に現れ、こう叫ぶ。
「神を探している！神を探している！」
人々は笑いながら答える。「迷子にでもなったのか？移住か？死んだのか？」狂人は叫ぶ。
「神は死んだ！神は我々が殺したのだ！
どうして我々はこれを成し得たのか？
海を飲み干すことなどできるのか？
地平線を拭い去ることなどできるのか？
我々は太陽を縄で縛ることなどできるのか？」人々はまだ、事態の深刻さを理解していなかった。
狂人は嘆く──
「この死体がまだ腐臭を放ち続けるには、永劫の時間がかかるだろう」
「そして我々は、神の血で手を汚したこの手で、どこへ向かうのか？」最後に彼は、沈黙した群衆に松明を投げつけ、立ち去った。
この寓話は、単なる狂人の戯言ではない。
むしろ、“まだ気づいていない社会”に向けられた警告だった。
神という概念を失っても、価値体系がすぐに崩れるわけではない。
だが、土台を失ったビルは、遅れて崩れる。
ニーチェが恐れたのは、その“時間差の崩壊”だった。
焼け跡の匂い
雷はすでに落ちた。
問題は──誰がその音を聞いたかだ。
神は“殺された”。
けれど、人々はまだ“その死を受け入れていない”。
それが焦げ跡のように、世界に漂っている。
信仰だけではない。
正義も、真理も、善悪も。
あらゆる“絶対”が、すでに静かに息絶えている。
煙のように残るのは、“かつて神がいた”という匂いだけだ。
あなたは焦げ跡に足を踏み入れるか？
この寓話には、終わりがない。
なぜなら、神の死体は今も世界のどこかに横たわっていて、
誰もそれを片づけていないからだ。
そしてあなたは、
その煙の上に家を建てるのか。
それとも──
焼け跡に足を踏み入れ、自分で灰をかき分けるのか。
ニーチェはそれを問うために、「狂人」を演じさせた。
では、あなたは今、誰のふりをしている？
神なき世界では、人間が“自らの善悪”を定義し直さなければならない。
ニーチェはその途方もない課題の始まりを、「街頭の狂人」の口を借りて描いた。
第3章【ハンマーの雷鳴】──超人はどう鍛えられるか
“神を失った時代”に必要なのは、“新しい価値の創造”である。
ニーチェはその鍵として、「主人道徳と奴隷道徳」の構造を提示した。
あなたの価値観は“誰が”鍛えた鉄か？
それは、自分で選んだものか？
それとも、生まれたときすでに溶接されていた“誰かの道徳”か？
あなたが正しいと思っていること。
あなたが卑しいと感じること。
その基準は、本当にあなたのものだろうか？
ニーチェは、価値観の正体を探るために、ハンマーを持った。
その先にいたのは、“奴隷”と“主人”という、二つの魂だった。
ニーチェの“価値解体ツール”
ニーチェは言う。
この世界には、2種類の道徳がある。
ひとつは「主人道徳」。
強者が自らの力を肯定し、「善」とは“自分のような存在”だと定義する思想。
それは、誇り・勇気・豊かさ・正直さといった価値を含む。
もうひとつは「奴隷道徳」。
弱者が、自分を傷つけるものを“悪”と呼び、自らの弱さを“善”とすり替える思想。
ここでは、謙虚・自己犠牲・禁欲・従順が美徳とされる。
そしてニーチェは問う。
現代社会の倫理は、果たしてどちらか？
答えは明白だった。
社会に満ちる「優しさ」や「自己犠牲」は、弱き者による逆転の産物。
それは道徳ではなく、“復讐の正当化”である──彼はそう見ていた。
理想の崩壊：ワーグナーとの決別
この思想の影に、ひとつの悲劇がある。
ニーチェが理想として崇めた人物──音楽家リヒャルト・ワーグナーとの訣別だ。
ワーグナーは若きニーチェにとって、“主人道徳の体現者”だった。
美と力を兼ね備え、真の芸術に命を懸けるカリスマ。
だが、晩年のワーグナーは変質していった。
名声に酔い、大衆迎合に走り、キリスト教的なモチーフに傾倒し始める。
ニーチェは耐えきれず、ある手紙を送った。
内容は婉曲だが、事実上の決別宣言だった。
「あなたは音楽の神殿で歌う代わりに、
カトリックの講堂で香を焚く道を選んだのですね。」
この一文の裏には、深い失望と、ひとつの理想の死が刻まれている。
豆知識：
その決別の前年、ニーチェはワーグナーの誕生日に自作の楽譜を贈っている。
その直筆スコアは、いまもバイロイト音楽祭資料館に静かに保存されている。
まるで、再び響くことのない音の墓標のように。
哲学のハンマーが鳴る
稲妻の光には“破壊の予兆”がある。
その次に轟くのは、ハンマーの音だ。
ニーチェは言った。
「私はハンマーで哲学を試金する」と。
叩いて、音を聴く。
それが空洞ならば、偽り。
割れるならば、それは壊すべき“偶像”。
そのハンマーは、慈悲深い破壊ではない。
無神論でもない。
それは──“問い”そのものだ。
破片から、何を作るか？
信じていたものが壊れたとき、
その破片を、あなたはどうするだろう。
捨てるか？
拾って、また同じ偶像を作るか？
それとも──
そこから、まったく新しい剣を鍛え直すか？
ニーチェはハンマーで世界を壊した。
だが、それは破壊のための破壊ではなかった。
何かを創る者のために、“まず壊す”必要があった。
いま、あなたの足元にも、
粉々になった“誰かの価値観”が散らばっている。
その破片を拾う手は、震えているか。
それとも、もう握りしめているか──？
壊すことは終わりではなく、始まりである。
ニーチェは、偶像を砕くハンマーを手に、「自由とは自分の価値を鍛えることだ」と語った。
第4章【永劫の閃光】──時間は円を描くのか
「永劫回帰」は、宇宙論ではなく“生き方を問う倫理装置”である。
ニーチェは“時間の円環”という思想で、人間の覚悟を測ろうとした。
もし“この瞬間”が永遠に繰り返されるとしたら？
それは、救いだろうか？
それとも、拷問だろうか？
ある朝、目覚めたその瞬間。
あなたは同じ部屋にいて、同じ景色を見て、同じ日常を生きる。
だが、それが**“初めての出来事”ではない**としたら？
もし、今この瞬間が──
あなたの永遠だとしたら？
ニーチェはある夏の日、スイスの湖畔でこの問いを受け取った。
それは哲学というより、“電流”だった。
シルヴァプラーナ湖で見た永劫回帰
1881年8月。スイス、シルヴァプラーナ。
静まり返った山々と、深く透き通った湖のほとりで、ニーチェは散歩をしていた。
その時だった。
彼の言葉を借りるなら、“考えという名の雷”が落ちた。
それは突如として、完全なかたちで彼の内に現れた。
「この人生を、もう一度、まったく同じ順番で繰り返さなければならないとしたら、
あなたはそれを喜んで受け入れるか？」
この問いを、彼は永劫回帰と呼んだ。
時間は直線ではなく、円環を描いている。
すべては繰り返す。
あなたが今この瞬間に選ぶこと──それすらも、何度も繰り返されるのだ。
哲学的背景：回帰する時間の系譜
ニーチェが得たこの直観は、空想ではない。
古代にも、同じような思考はあった。
たとえば、ストア派哲学は宇宙を“周期的に燃え尽き、また同じように再生する”と捉えていた。
また、インド思想の輪廻もまた、魂が因果によって永遠に“巡回”する構造を持つ。
だが、ニーチェは違った。
そこに報いも救いもない。
あるのはただ、「全てを自分の意志で引き受けられるか」という力への問いだった。
それは宗教のような慰めではなく、
人生の一瞬一瞬を、全力で生きるための思想だった。
「お前が“そうあれ”と望むその瞬間を、
永遠に繰り返す覚悟があるか？」
──それが、ニーチェの永劫回帰。
同じ稲妻の幻視
稲妻は、ふつう一度きりだ。
だが、この思想における稲妻は──何度も同じ軌跡を走る。
それは一種の幻視。
地平線を裂く光が、全く同じ角度で、同じ形で、同じ音を立てて繰り返される。
ある人にとっては、それは祝福に映るかもしれない。
「愛する人と同じ日を、永遠に過ごせる」と。
だが別の人には、それは地獄だろう。
「この絶望を、何度も味わえと？」
同じ稲妻を何度も見るということは、
そこに自分の“選択”が刻まれているということだ。
ループは祝福か、呪いか？
ニーチェは、永劫回帰を“証明”しようとはしなかった。
それが事実かどうかではなく、
それを信じるように生きられるかを問いたかったのだ。
あなたが今しているその選択は、
この瞬間に吐いた言葉は、
次の人生でも、また次の人生でも──
まったく同じように再現される。
その人生を、
あなたは「もう一度、お願いします」と言えるか？
それとも、
「それだけは、もう二度とごめんだ」と思うか？
ループは、誰にとっても同じ形で訪れる。
違うのは──それを見ている観測者の意志だけだ。
そして今、
あなたはそのループの中で、何を選び直す？
「繰り返される世界」とは仮定に過ぎない。
だが、それを本気で想像することでしか、人は“この瞬間に対して責任を持つ”ことはできない。
第5章【狂気の光冠】──ディオニュソスと被釘者
ニーチェの崩壊は“逃避”ではなく、“自己と神の境界”を越えようとした試みだった。
この章では、彼が神を否定した果てに“神を名乗る”に至る過程を追う。
境界線の向こう側を見た者は帰ってこられるのか？
あるとき突然、名前を変えたくなる衝動。
自分が何者か、はっきりしすぎて気持ち悪くなる瞬間。
「もしかして、自分は“別の存在”にすり替わっているのではないか？」
それが“狂気”かどうかを判断するのは、
いつだって“狂っていない者”の側の論理だ。
だが、もしその“別の存在”が──
神だったとしたら？
1889年、トリノで“何か”が起きた
その朝、ニーチェは馬に近づいた。
寒空のトリノの広場で、御者に鞭で打たれていたその馬に。
彼は突然その馬の首を抱きしめ、泣き崩れた。
「もう、やめてくれ…」
誰に向けて発したのかも不明なその言葉を最後に、彼は崩れ落ちた。
この瞬間を、ニーチェ伝記の多くは「崩壊」と呼ぶ。
哲学者の沈黙。
人間ニーチェの終焉。
しかし──
“壊れた”のではない。
彼は、“別の存在に変容した”。
変わる署名、変わる人格
崩壊のあと、ニーチェは手紙を書き続けた。
送り先は友人、弟子、さらにはドイツ皇帝やバチカン。
だが──
その署名が異常だった。
あるときは「ディオニュソス」。
またあるときは「被釘者（Der Gekreuzigte）」──磔刑にされた者、つまりキリスト。
このふたつの神格。
酒と陶酔、生の爆発を司るギリシャ神ディオニュソス。
そして、犠牲と救済、死を背負うキリスト。
対極の存在を、ニーチェは交互に名乗った。
精神医学的には、これを「神格憑依型の誇大妄想」と分類するかもしれない。
だがその単語では語れない“何か”が、彼の内側で起きていた。
豆知識：崩壊の数日前に、彼が立ち寄ったカフェ「フロリダ」の領収書が残っている。
ホットチョコレートを頼み、スプーンを5回転させ、席に2時間座っていたと記録されている。
世界が割れる直前の、あまりに静かな日常。
■ 象徴：稲妻の残光（残像）
ニーチェに落ちた稲妻は、他のどの稲妻よりも強く、長く、焼きついた。
だがその光は、爆発的な閃光ではなかった。
それはむしろ、**視界の端にずっと残り続ける“残光”**だった。
自分が「誰か」だと思っていた像が、焼きついた後の網膜にずっと漂う。
狂気とは、完全に壊れることではない。
むしろ、二重写しのまま日常を歩き続けることかもしれない。
神ではない者が神の名を語る。
人ではないものが、人の姿を取る。
正気と狂気のあわいで、
ニーチェという存在は、名も姿も、ゆっくりと滲んでいった。
あなたの名刺に、いつか別の名がにじむとしたら？
あなたがいま手にしているその名刺。
肩書き。名前。所属。立場。性格。性別。
それは、本当にあなただろうか？
もしある日、それが滲み始め、
「別の名前」が浮かび上がってきたら──
それを恐れるだろうか？
それとも、
それこそが**“本当の名”だった**と、受け入れるだろうか？
ニーチェは、自分の名前が崩れていく音を聞きながら、
神と狂気のあいだで、
静かに、光の王冠をかぶった。
「狂気」とは、理性の失調ではなく、理性の臨界を越えた地点の名である。
ニーチェはその地点に、“人間”の限界と“神の模倣”が重なる瞬間を見た。
第6章【虚無の放電】──ニヒリズムの夜を照らすもの
ニヒリズムとは、「何も信じられない」という状態ではなく、信じる理由そのものが消える状態である。
ここではニーチェが体験した“虚無の夜”と、それを超える姿勢を探る。
全てが無意味に見える夜、何が最後に光るか？
「どうでもいい」が口癖になった日、
すべての色が同じグレーに見えた日、
──あなたは、その夜の深さを覚えているだろうか？
生きる意味が問われるのではなく、
“なぜ、意味を問う必要があるのか”さえ消えていく夜。
ニーチェはその夜を、“照らす”ためではなく、
そのまま引き受ける覚悟を持とうとした。
虚無は、選ばれた者だけに訪れたわけではない
ニーチェの“虚無主義”は、流行でも流行病でもない。
それは、彼自身が生きながら通った夜の風景だった。
戦場で看取った死
普仏戦争。ニーチェは若き日の一時期、
プロイセン軍の野戦衛生兵として戦地に赴いた。
そこで彼が初めて直面したのは、
理想も正義も名誉も通用しない、むき出しの死体の山だった。
血で泥が膿み、
誰のものか判別のつかない手足が、
“祖国のため”という言葉を空しく照らす。
その記憶は、彼の中に深い“ひび”を残した。
恋と裏切り、そして沈黙
愛した女性──ルー・サロメ。
彼女にプロポーズを断られた直後、ニーチェは彼女と親しかったパウル・レーとの関係も失い、
彼の周囲から人がいなくなっていく。
残されたのは、返事のない手紙と、
サロメが破ったとされる日記の切れ端。
「君を理解しようとしたこの心こそが、
君に最も拒絶される理由だった。」
その一文が、遺稿の端に走り書きされている。
読者に公開されることを前提としない、生の呻き。
病床のうわごと
ニーチェは晩年、ほとんど言葉を交わさなかったが、
ある夜、看護婦が記録したメモにはこうある。
「何も信じてはいけない。だが──
何も信じないということすら、信じるに値しない。」
それは、信仰も、真理も、言語さえも通り越した、
**“沈黙の哲学”**と呼べるかもしれない。
稲妻が去った後の“帯電した闇”
ここには、もはや閃光もない。
稲妻はとっくに走り去った。
音も、光も、残ってはいない。
だが、空気にはまだ──緊張が残っている。
ぴりぴりと肌を刺す、
“もう一度雷が落ちるかもしれない”という、静かな予感。
ニヒリズムとは、ただの空虚ではない。
それは、**破壊のあとに訪れる“何かが始まりうる空白”**でもある。
ニーチェにとって、それは絶望ではなく、余白だった。
手探りの先にある、微かな導線
光が消え、音もなくなったとき、
あなたはどうする？
走るか。眠るか。
あるいは──
手を伸ばすか？
ニーチェはその手で、次の稲妻を“呼ぶ”ことはできなかった。
だが彼は、帯電した夜の空気の中で、目を開け続けていた。
闇の中であなたが手探りに触れた何かが、
もしかすると──
次の閃光の導線かもしれない。
それは、燃え尽きた信仰の灰か。
踏み潰した恋の破片か。
誰かが残した言葉の残像か。
いずれにせよ、
それに触れたその手が、
世界を再び光らせる可能性を孕んでいる。
虚無の夜は、始まりの夜でもある。
ニーチェは、あらゆる信仰と価値が崩れた“あと”にも、人は何かを掴めると信じていた。
第7章【遠雷の余白】──残光を掌に
思想は雷のように突発的に生まれるが、残るのは“焼け跡”としての問いだ。
この章では、ニーチェの残した痕跡を「静かな肯定」として捉え直す。
稲妻の痕跡を手元に残せるとしたら？
何かが閃き、何かが砕け、
光は走り、影が揺れ、
──そして、すべては静かになる。
だがその静けさの中に、
あなたはまだ“微かな震え”を感じていないか？
稲妻は過去のものか？
それとも、まだどこかに残っているのか？
ニーチェが最後に探していたのは、
“雷鳴が去った後にも残るもの”だった。
未完の遺稿と、語られなかった核心
ニーチェの死後、膨大なメモの断片が残された。
『力への意志（Der Wille zur Macht）』と題されたそれらは、正式な著作ではない。
未完成。編集されていない。
だが──だからこそ、生々しい。
彼の思想の中心にあったのは、「世界の肯定」だった。
神を殺し、真理を破壊し、道徳を粉砕したあとに、
何を支えに立ち上がるのか。
その答えが、断片の中にこう記されている。
「生とは、ただ耐えることではない。
自らに起こるすべてのことを、何度でも『然り』と言えるかが問われている。」
それは、希望や理想ではない。
もっと強く、もっと静かで、
**“稲妻を受け入れた後の肯定”**だった。
時を刻む閃光の痕
ある木に、雷が落ちたことがある。
幹の表皮は裂け、年輪には焼け跡が刻まれた。
風雨が過ぎても、その傷痕は年輪として残り続ける。
時間の中に、
記憶の中に、
その裂け目は、黙ったまま生きている。
ニーチェという存在もまた、
時代という大樹に落ちた、ひとつの閃光の痕だったのかもしれない。
その痕を、“触れられるもの”として持てるとしたら──？
掌に残る静かな光
あなたの手元に、
稲妻が走ったあとの“静けさ”を刻んだものがあったとしたら。
それは、叫ばない。
動かない。
何も語らない。
けれど、見るたびに、思い出すだろう。
問い続けた哲学者が、かつて
神を殺し、孤独を愛し、雷に打たれ、それでも「生に然り」と言ったことを。
哲学は、生き方を支える“沈黙の残像”である。
ニーチェは「生に然り」と言う姿勢を、誰もが手の中に持てる何かとして残そうとした。
掌のなかの“然り”
稲妻は消え、雷鳴も止んだ。
だが──その光が走った痕跡は、今も私たちの視界の片隅で、ゆっくりと明滅している。
ニーチェは、ただ破壊したのではない。
信仰や真理、制度や道徳、それらを打ち砕いた先で、「それでも生に然りと言えるか？」という問いを、私たちの掌に残していった。
言葉はもうない。
思想も、解釈も、ここで一度、途切れる。
けれど──形だけは、残せるかもしれない。
たとえば、机の上にそっと置かれた、稲妻の“残光”のような何か。
沈黙のなかに問いを宿した、小さなオブジェ。
それは、主張するでもなく、慰めるでもなく、
ただそこに在り続けることで、あなたに問いかける。
──その価値観は、本当にあなたのものか？
──その選択を、何度でも繰り返したいと思えるか？
──「生に然り」と、あなたは今、言えるか？
哲学は、分厚い書物で語られるものだけではない。
ときにそれは、“触れられる問い”として、掌の中に宿る。
あなたが、あの光の余韻を忘れたくないと思ったとき、
その手に、そっと残しておけるかたちがあります。
それだけで、じゅうぶんだと、ニーチェもきっと笑うでしょう。
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