あなたの仏は、もう来たのか?
秒針が動いていない。
しかし、その中ではゼンマイが音もなく――確かに、巻かれている。
あなたが拝んでいるその仏像。
もしそれが「未来から来るはずの者」だったとしたら、どうだろう?
仏像とは、悟りを開いた聖者の象徴だと、誰もが思っている。
だが日本の寺社に安置され、多くの人が手を合わせるその“ほとけ”たちの中には、まだ仏ですらない存在が紛れている。
その名は、弥勒菩薩。
釈迦の教えが尽きた後、はるか彼方の未来に出現する“次の仏陀”とされている存在だ。
弥勒は悟りを開いていない。
にもかかわらず、古代から現代まで、私たちは彼を信仰し、仏像にして、祈りを捧げてきた。
――なぜ、まだ起きていない“未来”に、こんなにもすがるのか?
この問いは、宗教の問題にとどまらない。
それは、“時間”とは何か、“希望”とは何か、そして私たちは何にすがるとき、いちばん強くなれるのかという哲学の問題でもある。
弥勒菩薩は、言ってしまえば「遅れて来るヒーロー」だ。
しかもその遅れは、何十年、何百年といった単位ではない。
56億7千万年後。
これは単なるおとぎ話なのか?
それとも、“遅れていること”にこそ救いの本質があるという、逆説的なメッセージなのか?
本稿では、弥勒という名前に巻かれたゼンマイを、7つの章に分けて丁寧にほどいていく。
そして最後に、
あなたの手のひらにも確かに存在する、「止まったまま未来を待つ懐中時計」――その秒針が動き出す瞬間を、もう一度見つめ直してみたい。
では、最初の章へ。
第1章:【秒針の違和感】──未来仏を今拝むというパラドックス
なぜ“まだ悟ってもいない仏”に手を合わせるのか?
ある仏像の前に立ったとき、あなたは思ったかもしれない。
「この仏は、どんな悟りを開いたのだろう?」
その問いは、ある種の前提に立っている。
仏像とは、すでに悟りを得た者の姿を刻んだものだと。
しかし――その前提を裏切る存在が、現代の日本にも無数に祀られている。
その名は、弥勒菩薩(みろくぼさつ)。
仏という名を冠していながら、彼はまだ仏ではない。
悟りを開いておらず、私たちの未来において、ようやくそれを果たす予定の者。
つまり私たちは今、“まだ悟っていない存在”に手を合わせているのだ。
このパラドックス。
それは、宗教的信仰というより、時間そのものに対する深い違和感に触れるものだ。
なぜ私たちは、「まだ現れていないもの」にこそ、強く祈るのか?
その問いは、仏像の静寂の中で、秒針のズレのようにじわりと浮かび上がってくる。
弥勒は釈迦の後継にして未来仏
弥勒菩薩とは、サンスクリットでマイトレーヤ(Maitreya)。
語源は「慈しみ(maitri)」を意味し、その名の通り、慈悲の象徴とされる未来仏である。
仏教にはこうした“未来予言”の構造が存在する。
釈迦(ガウタマ・ブッダ)は自身の死後、法が薄れた末法の時代に、新たなブッダがこの世に降臨すると語った。
その存在が、弥勒菩薩。
経典によれば、釈迦入滅から56億7千万年後、弥勒はこの世界に“下生(げしょう)”し、龍華樹の下で悟りを得て、仏となる。
現代において弥勒はまだ菩薩、すなわち修行中の存在に過ぎない。
彼は今なお、兜率天(とそつてん)1という天界に在り、我々の“遥か未来”に仏陀として現れる予定だ。
それでもなお、人々は祈る。
救いを今この瞬間に欲しながら、来るかどうかも分からない“次の仏”に向かって手を合わせる。
なぜ?
その姿は、単なる信仰を超えて、未来を信じる人間の根源的な姿勢そのものかもしれない。
止まった懐中時計=「時を留めて未来を待つ姿」
もしもあなたが、止まった懐中時計を手にしたとしよう。
その時計は動かない。だが、裏蓋を開けば――ゼンマイは巻かれている。
弥勒菩薩とは、まさにそういう存在だ。
秒針は動いていない。悟りの瞬間は、まだ訪れていない。
しかし、その内部では、慈悲のゼンマイが確かに巻かれており、“未来の救済”というエネルギーが静かに蓄積されている。
この「止まったまま、未来へ向けて張りつめた存在」が、弥勒の本質なのだ。
仏とは、すでに悟った者ではない。
これから悟ると決まっている者にも、私たちは祈ることができる。
それは、「未完成なまま、確かに希望を持つ」という、
人間の意識の最も深いところにある構造的信仰のようにすら見える。
あなたの願いは「未来の自分」への祈りかもしれない。
止まった懐中時計に耳を当ててみよう。
針の音は聞こえない。けれど――そこには“音のしない鼓動”がある。
あなたが今日、未来に祈りを捧げたとき、
それは決して遠く離れた救世主への願いではなく、**未来に確実に到達するであろう“自分自身の姿”**へのメッセージだったのかもしれない。
仏とは外にいるものではない。
弥勒菩薩とは、「未来の私たち自身が、仏たりうる」という暗号に他ならないのだ。
そして、そう信じることこそが、
止まったままの時間に“音なき針”を動かし始める、最初の合図になる。
- 兜率天(とそつてん)は、仏教の世界観において、欲界六天のうちの第四天で、将来仏となるべき菩薩の住処とされています。特に、弥勒菩薩が住む場所として知られています。 ↩︎
第2章:【渡り鳥の羅針盤】──なぜガンダーラ遺跡に弥勒像が多い?
なぜガンダーラ遺跡に弥勒像が多い?
インドの北西、今のパキスタンとアフガニスタンの境界地帯に広がる古代都市ガンダーラ。
その遺跡群からは、驚くほどの数の弥勒菩薩像が出土している。
なぜ、この地にこれほどまで“未来の仏”が集中していたのか?
なぜ、仏教の本家インド本土ではなく、辺境のこの土地で、弥勒は特別に彫られ続けたのか?
もし仏教が“静”の思想だとするなら、弥勒はそこに**“動”の軌跡を残した存在**なのかもしれない。
彼が刻まれた場所は、必ず「交差点」だった――文化と信仰がぶつかり、混ざり、進んでいく場所。
つまり弥勒とは、祈りの中に**方角を持って生きている“渡り鳥”**だったのではないか。
インド初期仏教→ガンダーラ→中国→朝鮮→日本。
仏教がインドで誕生した紀元前5世紀。
釈迦が示した教えは、すぐには像に刻まれなかった。彼の姿は空白のまま、法と思想だけが伝えられた。
しかし時が経ち、ギリシャ文化と接触したガンダーラ地方において、仏の姿は初めて“人の形”を得た。
それが「ガンダーラ美術」の誕生である。
そして、なぜかその地で特に多く彫られたのが、弥勒菩薩だった。
理由は複数あるとされる。
弥勒は「未来の仏」であり、まだ到来していない“次のステージ”の象徴。
それは、まさに仏教が旅をし、未踏の文化圏へと入っていくその瞬間と重なるのだ。
さらにこの地域には、イラン由来の「ミスラ神(ミトラ)」信仰が残っていた。
ミスラは太陽と契約の神であり、終末に現れて世界を救うとされていた“救世主”でもある。
彼のバクトリア語名は“ミイロ”――そう、弥勒(ミロク)と同音なのだ。
こうして、宗教的交差点としてのガンダーラで、弥勒という名の“未来の仏”は新たな姿を得ていった。
やがてその姿はシルクロードを渡り、中国へ、朝鮮へ、そして日本へと――
渡り鳥のように、風の羅針盤を頼りに旅を続けた。
羅針盤のN極=慈悲、S極=希望。
渡り鳥は磁場を読む。
仏教は“言葉”と“姿”を羅針盤にして、文化の空を飛んだ。
その針のN極に刻まれていたのが、“慈悲”という名の磁石。
そしてS極に宿っていたのが、“希望”という重力だった。
弥勒菩薩は慈悲の体現者であり、未来を約束する希望そのものでもある。
だからこそ彼は、宗教の新天地へ向かうたびに現れた。
弥勒とは、釈迦の死後に残された“空白”を埋める羅針盤。
何が正しいかより、どこへ向かうかを示す存在。
それはまるで、動かない時計の中で、方位だけを指し続けるコンパスのようだ。
信仰は文化を運ぶ“長距離移民”だった。
私たちは時に、宗教を「止まったもの」として扱ってしまう。
固定された教義、変わらぬ像、永遠の祈り。
だが、弥勒が辿った道を振り返れば、その姿はむしろ“動き”そのものだった。
信仰とは、文化を背にして飛ぶ渡り鳥だった。
それは風に乗って移動しながら、土地ごとに羽の色を変え、
そのたびに“祈りのかたち”を変えていく。
弥勒という名の羅針盤が指していたのは、悟りの方向ではない。
文化の時間軸を越えても失われない、静かな希望の方角だったのだ。
そして――
あなたの中にもまた、その針は、ひっそりと振れているのかもしれない。
第3章:【三つのゼンマイ】──弥勒三部経が描く“上生・下生・成仏”
56億7千万年後の約束、信じられる?
「この人は、56億7千万年後に成功します。」
もしあなたの目の前にそんな人物がいたら――あなたは信じるだろうか?
釈迦が亡くなった後、仏教はある“予言”を受け継いだ。
それは、弥勒という名の者が、悠久の時間を経て、再びこの世界に仏として現れるというもの。
しかしそのスケールは、もはや現実感を超えている。
億、千万。
天文学的な時間を経て、しかも「必ず来る」と言い切られている存在。
この「ありえなさ」が、逆に妙な信憑性を帯びるのはなぜか?
わたしたちは“遠すぎるもの”に、なぜか安心する。
弥勒の予言は、単なる未来像ではない。
それは、**とてつもなく遠い希望の“巻き取り”**でもある。
弥勒上生経・下生経・成仏経=三段ロケット
仏教には、弥勒に関する代表的な三つの経典がある。
それらはまるで、未来へ打ち上げられた「三段ロケット」のように配置されている。
- 第一段目:「弥勒上生経(みろくじょうしょうきょう)」
舞台は兜率天。釈迦の弟子であった阿逸多(アジタ)が、修行の果てに天界に生まれ変わり、弥勒菩薩として住まう姿が描かれる。
これは“すでに未来がスタンバイされている”という宣言であり、祈りの最初の発射台だ。 - 第二段目:「弥勒下生経(みろくげしょうきょう)」
舞台は56億7千万年後の地上。弥勒が人間界に降臨し、仏となって法を説く姿。
ここで語られるのが“龍華三会(りゅうげさんえ)”――弥勒仏が三度の大説法を開き、96億・94億・92億の衆生を救済する壮大なクライマックス。 - 第三段目:「弥勒成仏経(みろくじょうぶつきょう)」
弥勒が如来として成仏し、最終的にこの世界に理想の教えを定着させる姿。
ここでは、“未来の完成形”が描かれ、物語は弧を閉じる。
この三部経典は、「未来に何が起こるか」ではなく、**「未来がどうやって構造として仕組まれているか」**を示す設計図である。
そして設計図は、未来に対して安心を与えるための芸術でもある。
三重ゼンマイが巻かれ、最後の発条が弾ける瞬間が“龍華三会”
想像してほしい。
あなたの手のひらにある懐中時計には、3つのゼンマイが仕込まれている。
- ひとつは、すでに巻かれた「兜率天の時間」。
- ひとつは、静かに張力を高めている「人間界の時間」。
- そして最後は、「成仏の瞬間」というスプリングだ。
この3つのゼンマイは、時の流れに同期することなく、別々の位相で“張力”を高め続けている。
そしてすべてが重なった瞬間――
静寂を破るように、「龍華三会」の鐘が鳴る。
仏教的にはこの“龍華樹の下”が、弥勒の悟りの場であり、張力の限界点でもある。
そこに救われるのは、96億、94億、92億――
まるで歯車のカウントのように膨大な数の人々が、一気に“時の解放”を受け取る。
弥勒の救済は、「針が動き出す」などという小さなものではない。
それはゼンマイが弾け、時が“跳ぶ”瞬間だ。
時間は“長さ”よりも“張力”で語るとドラマになる。
私たちは、時間を「長い」「短い」で測ろうとする。
しかし、弥勒の物語はそうではない。
本当に語られているのは、“張り詰めた時間”だ。
56億7千万年という数字は、その距離を測っているのではない。
それは、「これだけ引き伸ばされても、まだ信じていられるか?」という問いそのものなのだ。
だからこそ、弥勒は強い。
彼はまだ来ていない。だが、そのゼンマイは確実に巻かれている。
あなたが「まだかな」と思うその瞬間こそ、
ゼンマイの音のしない巻き戻しが、静かに未来を準備している。
第4章:【末法という暗室】──闇が深いほど未来は光る
末法は“絶望”か“溜め”か?
「この世はもうダメだ。」
そんな呟きは、いつの時代にも聞こえてくる。
だが仏教における“もうダメ”は、思想としてシステム化されている。
それが、「末法(まっぽう)」だ。
釈迦の入滅から数百年を経ると、人々はこう考え始めた。
教えは色褪せ、修行者は減り、悟りを開く者もいない。
この世は、もう“仏の光”が届かない時代なのではないか――と。
けれど、本当にそうなのか?
この“闇”は、ただの絶望なのか?
それとも、光を浮かび上がらせるための「溜め」なのか?
未来が現れるためには、一度、見えなくなる時間が必要なのだとしたら。
正法→像法→末法+上生信仰 vs 下生信仰
仏教の時間観には「三時」という区分がある。
- 正法(しょうぼう):釈迦の教えも修行も悟りも完全に保たれていた時代(約500年)。
- 像法(ぞうほう):教えと修行はあるが、悟りを開く者はいなくなった時代(約1000年)。
- 末法(まっぽう):教えだけが残り、修行も悟りも途絶えた時代(以後、永続)。
末法とは、“仏法の化石時代”だ。
形は残るが、中身が動いていない。
つまり、仏の時間が止まった時代とも言える。
この末法という空白期に、人々はどのように救済を求めたのか?
大きく分けて、2つの流れがある。
- 上生信仰(じょうしょう):
弥勒がいる天界“兜率天”に自らが死後生まれ変わり、未来の仏に会うことを願う信仰。 - 下生信仰(げしょう):
弥勒が未来にこの世へ降臨し、こちらに“来てくれる”ことを待つ信仰。
前者は、自分が飛び立つ型の救済。
後者は、来訪者を待つ型の希望。
特に日本では、末法の訪れ(1052年)を境に下生信仰が爆発的に広がる。
人々は、もはや修行もできない世界に身を置きながら、“未来から来る者”だけを光として見上げた。
暗室でフィルムを現像=闇の時間が像を浮かび上がらせる
写真という芸術は、一度、暗闇を必要とする。
ネガフィルムには、すでに光を記録した“潜像”がある。
けれどそれを“見える像”にするには、暗室で現像液に浸す時間が必要だ。
末法とは、この「暗室の時間」によく似ている。
弥勒の物語は、すでにネガの中に焼き込まれている。
上生経、下生経、成仏経――すべてが未来の潜像として構成されている。
だが、現像には“静かな闇”がいる。
動きもなく、光も入らず、ただただ待つ時間。
弥勒を浮かび上がらせるには、末法という暗室が必要だったのだ。
それは世界が沈黙する時間。
だからこそ、未来の像が、くっきりと浮かび上がる。
闇は“未来を焼き付ける現像液”だ。
私たちは、闇を嫌う。
だけど時に、闇がなければ見えないものもある。
末法とは、「終わり」ではない。
それは、「未来を焼き付ける準備時間」だった。
弥勒が仏になるのは、釈迦の教えが完全に沈んだあとだ。
つまり――
仏が消えた後にしか現れない仏。
それが弥勒菩薩という存在。
あなたが今、何も見えない世界にいると感じたとき、
それはもしかすると、未来の像が焼き付きはじめている合図かもしれない。
そしてその闇こそが、時間という名のゼンマイが巻かれる瞬間でもあるのだ。
第5章:【慈悲のパラドックス】──未完成こそ“可能性の証明”
完成形より“途中のほほえみ”に惹かれるのはなぜ?
仏像を前にしたとき、あなたの目を離させないものがある。
それは、悟りきった涅槃の静けさではなく――どこか“途中”にあるような、ほほえみ。
たとえば、京都・広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像。
頬に指をあて、脚を組んで思索に沈むその姿は、明らかにまだ完成していない。
だが、美しい。
完璧であるはずの仏よりも、
なぜ私たちは、「まだ道の途中」にいる存在に強く惹かれるのか?
その笑みは、**完成ではなく“確約された未来”**の笑み。
そしてそれこそが、弥勒という名の“慈悲の構造”なのかもしれない。
一生補処・弥勒=“保証された未完成”
仏教には「一生補処(いっしょうふしょ)」という概念がある。
これは、あと一回の人生を経れば必ず仏になれる存在を意味する。
釈迦に続いて次に仏になることが“確約”された存在――それが弥勒菩薩だ。
彼は、悟っていない。だが、悟ることが決まっている。
未完成でありながら、未来は保証されている。
この矛盾をはらんだ姿こそが、弥勒の魅力であり、
人々が彼を「未来の仏」として今拝む理由でもある。
“悟った存在”は、私たちと違いすぎる。
でも、“まだ悟っていないけど、悟る予定の存在”なら――親しみが持てる。
そして、もし彼が「慈しみの者(マイトレーヤ)」であるならば、
その慈悲の根源は、**まだ悟っていない私たちと、まだ悟っていない彼との“距離の近さ”**にあるのではないか?
懐中時計の裏蓋を開くと、歯車が“まだ動いている”姿が見える
完成された時計は、盤面しか見せない。
時を刻む針は、ただ正確に、静かに進む。
だが、懐中時計の裏蓋を開けてみると、
その内部では、無数の歯車が微細に震え、回転し、噛み合っている。
弥勒とは、その裏蓋を開けた瞬間に見えるものだ。
完璧に整っていない。
だが、動いている途中。確かに未来へと進んでいる。
釈迦は“時の完成形”。
弥勒は“動いている構造”。
その内部に惹かれるのは、私たちもまた、どこかで動き続けている存在だからなのかもしれない。
未完成なあなたも“保証書付き”かもしれない。
もし仏像が“完成形”の象徴なら、
弥勒はその中で唯一、「未完成のまま拝まれている仏」だ。
だがそれは、ネガティブな不完全ではない。
むしろ、**最も確かな“途中”**だ。
「未完成なのに、確約されている。」
この矛盾こそが、弥勒の慈悲の正体だ。
そしてそれは、あなた自身にも当てはまる。
今のあなたは、まだ途中かもしれない。
けれど、“止まっていない”。
ゼンマイは巻かれ、歯車は動いている。
ならば、あなたもまた、“保証書付き”の未完成かもしれない。
第6章:【369コード】──数字が忍ばせる“未来の伏線”
3-6-9の並びに、なぜ直観がざわつく?
数字に対して、言葉にできない“ざわつき”を感じたことはないだろうか?
3、6、9――
ただの数字。けれど、なぜか美しい。なぜか気になる。なぜか、意味がある気がする。
これは神秘思想でも、単なる語呂合わせでもなく、**直観に働きかける“幾何学的な違和感”**なのだ。
そして私たちは、知らず知らずのうちにこういう問いを抱えている:
なぜ、「ミロク」は“3・6・9”という数字に宿ったのか?
弥勒菩薩は未来の仏。
その「未来」は、実はすでに“数字”として、私たちの無意識に伏線を残していたのではないか?
3=創造、6=調和、9=超越+語呂“ミロク”
数秘術や神秘学では、3・6・9は特別な数字とされてきた。
- 3=創造の数
始まり・アイデア・三位一体・産み出すエネルギー - 6=調和の数
愛・美・均衡・家庭・バランスを取る力 - 9=超越の数
完成・終末・再生・集合知・霊性の数
この三つは、単に加算される数ではない。
それぞれが“異なる次元”に属している。
数列で見ると、3・6・9は他の倍数パターンと異なり、独立したルートを持つ。
特に「9」は、あらゆる数の加算結果の“終着点”となることから、宇宙の還元点とも呼ばれる。
さらに、日本語で369は「ミロク」と読める。
偶然だろうか? それとも、数字と信仰が交差した座標なのか?
かつてニコラ・テスラはこう言ったとされる:
「もし君が、3・6・9の壮大さを理解することができたなら、君はこの宇宙の鍵を手に入れたことになる」
仏教の“未来仏”と、科学者の“宇宙コード”が、奇妙に重なる。
この一致は、「意味がある」と断言するには荒すぎる。
だが、「偶然だ」と切り捨てるには、美しすぎる。
時計の文字盤で3-6-9だけが正三角形を結ぶ
時計の文字盤を思い浮かべてほしい。
12の数字の中で、3・6・9だけが完璧な正三角形を描く。
針が3→6→9を指すとき、それはまるで“時計の心臓”が動き出すようだ。
これは、偶然の配置ではない。
時計は「時間を計る機械」であると同時に、時間の象徴を視覚化した曼荼羅でもある。
その中で、3・6・9が正三角形を成すという事実は、
時の本質を支える三本柱=創造・調和・超越を象徴しているかのようだ。
そして弥勒は、「時間が未来へ動き出す装置」としての仏である。
止まった時計の針が再び動き出す――それが、弥勒の下生(降臨)というイベントだ。
ならばこの3-6-9のトライアングルは、
**未来という名の“再起動コード”**なのかもしれない。
数字は沈黙のまま、私たちの無意識に物語を預けている。
数字は語らない。
だが、それは“黙っている”のではなく、“語る必要がないほどそこにある”という沈黙だ。
369という並びは、私たちに何かを伝えようとしない。
ただ静かに、意味を委ねる余地だけを残している。
だからこそ、369は伏線になる。
弥勒は、数字としてすでに世界に“潜んでいた”。
それを拾うかどうかは、あなたの感覚次第だ。
もしあなたの中で、
「この数字、何かある」と思った瞬間があるなら――
それはすでに、未来が数字という形であなたに話しかけていた証拠かもしれない。
第7章:【止まった時計が鳴るとき】──弥勒の世と現代の私たち
もし“未来”が既に始まっていたら?
弥勒は、来るのか。
それとも――もう来ているのか。
私たちはいつも、「未来はこれから訪れる」と信じている。
だがもしその未来が、すでにどこかで静かに始まっているのだとしたら?
もし秒針がすでに“カチリ”と鳴っていたとしたら――
あなたは、その音を聞き逃していないか?
弥勒は“まだ来ていない存在”とされている。
けれど、弥勒の思想が既に現代に作用している事実がある。
「待つ」という行為が、もう“訪れ”の一部だったとしたら?
あなたは、どの瞬間に“弥勒の世”を生き始めていたのだろうか。
大本・神智学・ニューエイジにおける弥勒再解釈
弥勒菩薩の物語は、仏教という宗教の枠を超えて“未来思想”として再解釈され続けてきた。
日本では明治~昭和初期、大本(おおもと)教の出口王仁三郎が「ミロクの世」を説いた。
それは、既存の文明が崩壊し、新しい霊的世界が訪れるという啓示。
王仁三郎は自らを「弥勒の器」とし、救済者ではなく“救済の媒体”としての弥勒像を打ち出した。
一方、西洋でも神智学(Theosophy)が弥勒(Maitreya)を再定義した。
ブラヴァツキー、アリス・ベイリー、そしてベンジャミン・クレームらは、
弥勒を「ワールド・ティーチャー(世界教師)」として世界の裏舞台で活動する“霊的指導者”とし、今この瞬間にも弥勒は働いていると説いた。
ニューエイジ思想では弥勒はもはや“来るべき誰か”ではなく、
「すでに現れているが、気づくかどうかはあなた次第」な存在へと変容した。
この転換は、弥勒信仰のコアを変えたのではない。
むしろそれを、“いま・ここ”に引き寄せた。
弥勒は、待つ存在ではなく、気づかれる存在になったのだ。
ゼンマイの限界点=カチリと音がして止まった針が動き出す瞬間
時計の針は、ずっと止まっていたわけではない。
ゼンマイは、巻かれ続けていた。
そしてその限界点――
バネが張り詰め、ついに臨界を迎えた瞬間。
「カチリ」という小さな音とともに、秒針は再び動き出す。
その音は、派手な鐘の音ではない。
花火のような光でもない。
むしろ、静かすぎて聞き逃すほどの音。
でもその瞬間、未来は動き出す。
弥勒が来るとき、世界は劇的には変わらないかもしれない。
ただ、ある人の意識の中で――ある種の**“時の再起動”**が起こるだけ。
弥勒の世とは、きっとそういう世界だ。
大袈裟ではない。だが、確かに巻かれてきた未来の証明なのだ。
秒針が動き出すその瞬間を、触れて確かめたいと感じたら
いま、あなたの手の中に小さな懐中時計のレプリカがあるとしよう。
ずっと止まっていたその秒針が、「カチリ」と音を立てて動き出す。
その瞬間を、あなた自身の指でそっと触れて確かめたいと思ったなら――
それはきっと、“来るべき未来”が既に始まっていた証拠なのだ。
触れられる“未来の祈り”として
弥勒菩薩とは、来るべき仏であると同時に、
「まだ来ていないものに祈る」という、私たち自身の在り方の象徴でもあります。
その姿は、教義ではなく構造を語り、
未来を信じるとはどういうことか――という問いそのものだったのかもしれません。
今回、私たちはその“問い”を手にとって眺められるようなかたちにしたいと考えました。
ただの仏像ではなく、時間差の慈悲を静かに宿した立体。
そのために制作したのが、この弥勒菩薩フィギュアです。
誇張も装飾もありません。
あくまで、「止まった時計のゼンマイが、いつか音もなく動き出す」――その瞬間を思い出すために。
もしあなたの中にも、まだ見ぬ“未来の自分”への祈りがあるなら、
どうかそっと、この像を傍らに置いてみてください。
それは、あなたが未来に手を伸ばしたという、静かな証拠になるかもしれません。
詳細・購入案内

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