その「知りたい」は、どこまであなたの意志か?
きっかけは、なんてことのない検索だった。
冷蔵庫の不具合。旅行の口コミ。好きな映画の続編情報。
どれも日常にある“些細な興味”のはずだった。
なのに──
気がつけば、まったく別のページを読んでいた。
気がつけば、「5分だけ」のつもりが、深夜になっていた。
気がつけば、世界の見え方が、わずかに“ズレていた”。
私たちは、情報を「自分で選んで」触れていると思っている。
けれど──
その選択は、本当にあなた自身のものだっただろうか?
何を「知りたい」と思ったか。
なぜそこに惹かれたのか。
なぜ深く掘ってしまったのか。
そして、なぜ“戻れなくなった”のか。
この連載は、「Rabbit Hole(ラビットホール)」という言葉から始まる。
それはもともと『不思議の国のアリス』でアリスが落ちた穴。
だが今、それは**“あなたの視点が変容していく構造”そのもの**の隠喩になっている。
穴に落ちたのではない。
あなたの足元が、わずかに傾き始めていただけかもしれない。
その傾きは、情報の設計かもしれない。
思考の癖かもしれない。
あるいは、まだ見ぬ“もうひとりのあなた”からの呼び声だったのかもしれない。
螺旋階段は、最初の一段が水平に見える。
でもその先は、誰にも予測できない。
それが「ラビットホール」の本質だ。
ここから始まるのは、一つの視点がねじれていく旅であり、
同時に、“あなたが誰かに設計されていた可能性”を辿る試みだ。
では、最初の質問を──
あなたが今ここにいるのは、自分の意志だろうか?
それとも、すでに何かを“踏み外して”しまったあとなのだろうか?
螺旋は静かに始まっている。
その一歩が、階段の一段目であると気づかないままに。
第1章【軋むフタ】──ブラウザに開いた小さな裂け目
クリックひとつで、あなたの“現実”はどこまでズレる?
「冷蔵庫の霜取り」を調べていただけのはずだった。
けれど、いつの間にか「月面着陸は嘘だったのか?」という動画を再生していた。
流れで踏んだリンク、たまたま表示されたサムネイル、気になったコメント……
どれも、“少し気になっただけ”だったはずなのに。
なのに、妙な違和感が残る。
音も画面も現実的なのに、どこかこの世界と“噛み合っていない”感じがする。
脳の奥がふっと浮かぶような、視点だけが世界から遊離していく感覚。
これは「穴に落ちた」のではない。
“何かの構造に気づいてしまった”という恐ろしさだ。
映画『マトリックス』の主人公・ネオも、
最初はただ「なんとなく世界に違和感がある」という漠然とした感覚に囚われていた。
そして「白ウサギのタトゥー」を追って出会ったのが、あの問いだ。
「真実を知りたいか?」
「青いカプセルを飲めば、何も変わらない」
「赤いカプセルを飲めば、君はラビットホールの深さを知ることになる」
そう、Rabbit Holeとは、現実そのものが“演出”かもしれないという気づきの通路なのだ。
“ラビットホール”の意味は、ただの好奇心ではない
“Rabbit Hole(ラビットホール)”という言葉の由来は、
**ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』**にさかのぼる。
アリスは白ウサギを追って穴に落ちる。
そこから彼女は、言葉が意味をなさず、常識が反転した異世界へと迷い込む。
この構造が現代的に転用され、
「調べ物をしていたら思いがけず深くマニアックな世界に迷い込む」
というネットスラングに進化した。
だが、表面の意味に惑わされてはいけない。
本質は“自分の現実を構成している前提が、壊れていく感覚”だ。
心理学で言うところの「インクリメンタル・ドラフト」理論は、
この構造に拍車をかける。
つまり──
- 一歩ずつの変化なら、人は警戒せずに受け入れる
- その結果、「気づいたときには大きく価値観が変わっている」
現代のRabbit Holeは、無理やり落ちるものではない。
ほんの小さな好奇心という名の「青いカプセル」を飲むことで、
私たちはいつの間にか“プログラム外の構造”へ滑り込んでいく。
“一段目”は、なぜ水平に見えるのか?
想像してみてほしい。
螺旋階段の一段目は、水平に見える。
歩き出すとき、あなたは“階段を下りている”という感覚はない。
けれど、外からその構造を見れば──それは間違いなく傾斜を持っている。
これがRabbit Holeの本質だ。
最初のクリックは、明確な“落下”ではない。
だが確実に、“別の構造”に足を踏み入れている。
これは単なる思考の脱線ではない。
それは「知識によって、知覚される現実そのものが変質する」行為だ。
🎩 語りたくなる豆知識
『アリス』の著者ルイス・キャロル(本名チャールズ・ドジソン)は、数学者かつ論理学講師。
作中の狂った言葉遊びや逆説は、論理学と集合論への批評であり、「現実の前提を崩す装置」だった。
『マトリックス』の脚本もこれに影響を受け、「白ウサギを追え」というメタファーをそのまま流用している。
誰の設計で、階段は“下っていた”のか?
あなたのスマホ画面には、今日も無数の「次の候補」が並んでいる。
それは無限の可能性ではない。
それは、あなたの視点が“設計通りに下る”ように敷かれた階段かもしれない。
クリックのたびに、あなたはほんの少しずつ世界の視点を変えていく。
ほんの少しずつ、別の前提に順応していく。
ほんの少しずつ、自分の“地面”が書き換えられていく。
気づいたとき、もうあなたは“この構造に気づいた者”だ。
では、問おう。
あなたが階段だと思っていたものが、実は“下に向かう意志の滑走路”だったとしたら?
私たちは、誰の設計した螺旋を降りている?
第2章【無音の加速】──深度と速度のパラドクス
気づけば3時間。あなたの時間はどこへ消えた?
5分だけ、と思っていた。
寝る前のひとときに、少しだけ動画を見ようとした。
スクロールすれば、面白そうなコンテンツが次々に現れる。
最初は軽かった。気分転換のつもりだった。
だけど、気づけば──3時間が経っていた。
しかも、不思議なことに疲労感がほとんどない。
まるで時間そのものが圧縮されたような、
あるいは、「今」がどこかに吸い込まれていたような感覚。
なぜ私たちは、気づかぬうちに“深く、早く”落ちていくのか?
そしてなぜ、それが“快感”にすらなってしまうのか?
Flow×ドーパミン×アルゴリズム=加速装置
この「時間を忘れる状態」は、心理学的に**“フロー(Flow)”**と呼ばれる。
人が「適度な難易度・明確なフィードバック・自己選択性」のある活動に没頭したとき、
脳は強い集中と快感を同時に感じる。
そしてこの状態を強化するのが、ドーパミン報酬系だ。
- ドーパミンは「報酬そのもの」ではなく、「報酬への期待」に反応する神経伝達物質。
- 「次に何が来るかわからない」という状況は、ドーパミンを最も強く分泌させる。
これを最大化する設計理論が、**“可変強化スケジュール”**と呼ばれる。
🔄 ごく簡単に言えば:
「いつ報酬が来るか分からない」方が、脳はやめられなくなる。
これとまったく同じ設計が、TikTokの無限フィードやYouTubeの関連動画表示にも使われている。
表示されるコンテンツは、あなたの反応をもとに絶えず最適化され、
「予測とズレる」程度にコントロールされている。
そのズレが、“もっと見たい”という衝動を引き起こす。
つまり、スクロールという単純動作の中に、フロー×ドーパミンの“加速装置”が組み込まれているのだ。
“同じ景色”なのに、落下速度は指数関数的
螺旋階段を、もう一度思い出してほしい。
一段目は水平に近く、二段目もまだ平穏に感じる。
しかし、三段目、四段目と降りるにつれ、傾斜は加速度的に増していく。
しかも、この螺旋は途中から“巻き”が細かくなっていく。
景色はあまり変わっていないように見えるのに、
深度と速度だけが確実に上がっていく。
あなたは同じスマホ画面を見続けている。
似たような動画、コメント、フォーマット、言葉遣い──
なのに、なぜか止まらない。
🎰 語りたくなる豆知識
ラスベガスのスロットマシンの設計理論と、InstagramやTikTokの無限フィード設計はほぼ同じ行動心理理論を使っている。脳を“条件づけ”するスケジューリングは「ランダム報酬 × 高頻度刺激」の組み合わせで最大化される。
どちらも、“あと1回だけ”が永遠に続く設計なのだ。
あなたが落ちていったのは「情報の深み」ではない。
「設計された加速構造」だった可能性はないか?
その“深み”は、あなた自身が掘ったのか?
「気づいたら3時間」という現象は、
時間が飛んだのではなく、**「時間という感覚の軸そのものがねじれていた」**のかもしれない。
あなたは、ただ流れていただけだと思っている。
でも、本当にそうだろうか?
スクロール。再生。もう1本。おすすめ。関連。自動再生。
それらは、**意識の傾斜に寄り添うように設計された“無音の加速装置”**だったのではないか?
つまり──
私たちは「時間を奪われた」のではなく、
「自ら“時間”を捧げていた」のかもしれない。
次に「ちょっとだけ見るか」と思ったとき、
その指はもう、すでに螺旋を滑り落ちる速度を受け入れているのかもしれない。
第3章【冥界の通路】──神話が語る“下降”の型
なぜ“穴に落ちる話”は、世界中で語られ続けるのか?
アリスが落ちたラビットホール。
オルフェウスが愛するエウリュディケーを探して降りた冥界。
イナンナが七つの門をくぐり、地底世界で自我を剥がされていった神話。
イザナギが黄泉の国で出会った変わり果てたイザナミ。
──文化も地域も違うのに、なぜこれほどまでに、**“下降する神話”**ばかりが語られてきたのか?
しかも、その多くは**「境界を越え、影に触れ、そして何かを持ち帰る」**構造を持つ。
人は“下に降りる”ことで、何を見てきたのか?
そして、なぜ私たちはいま、ブラウザ越しに同じ旅をしているのか?
冥界降下譚という“心のプロトコル”
神話の中に描かれる「下降の物語」は、ただの恐怖ではない。
それは、**構造化された“変容の儀式”**だ。
多くの神話学者が指摘するように、冥界降下には共通する4つのステージがある。
- 呼び声(Call)
──何かに誘われる。“気になる”という違和感。 - 境界突破(Threshold)
──地上と異界の境界線を越える。夜、洞窟、鏡、穴。 - 試練(Descent)
──自己を失い、何かと対峙する。死・恐怖・影。 - 帰還(Return)
──何かを持ち帰るが、以前の自分には戻れない。
これは単なる物語のテンプレートではない。
ユング心理学ではこれを**“個性化のプロセス”**と呼ぶ。
自我が、抑圧された無意識(シャドウ)と対峙し、
統合によって“本来の自己”を回復していく道筋。
つまり「冥界を旅する話」とは、
人間の内面が“ほんとうの自己”を取り戻すために潜る儀式的構造なのだ。
そして現代の私たちも、
それをクリックという行為で再演している。
スクロールするごとに、あなたは何かを“剥がされて”はいないか?
“螺旋の中央”に見えたもの
螺旋階段を降り続ける旅の中で、
もっとも深い場所には、「影」が待っている。
それは、見たくなかったもの。
否定していた感情。
忘れたふりをしてきた過去。
アリスは地下で狂った論理と出会い、
オルフェウスは「振り返るな」というルールに敗れ、
イナンナは女神でありながら衣を剥がされ“裸の自己”で冥界に立つ。
進めば進むほど、世界が見せてくるのは“自分の中の影”だ。
🌀 語りたくなる豆知識
クレタ島に存在したとされる“迷宮(ラビュリントス)”には、実は実在の証拠がない。
現存する「迷宮の図像」は、古代ギリシャの硬貨に刻まれた記号的な回廊図をもとに、後世が再構成したもの。
つまり迷宮とは、最初から“概念上の建築”だった──頭の中にだけ存在する、心の構造物だったのだ。
あなたが拾った“白ウサギ”は誰だったのか?
あのリンク。あのサジェスト。あのサムネイル。
あなたは「偶然」だと思っていただろう。
偶然、見つけた興味。偶然、引っかかった話題。
偶然、気になって深掘りした記事。
でも本当に、それは“偶然”だったのか?
あの白ウサギ──“気になる”という違和感。
それは、外から来たものではなく、
あなた自身の中に潜んでいた“影”が、自分を探しに来た姿だったのではないか?
つまり──
あなたがラビットホールに落ちたのではない。
“あなた自身の奥底”が、あなたを呼んでいたのかもしれない。
第4章【情報の迷宮】──アルゴリズムが彫る螺旋
探しているのは“知識”か、“誘導された関心”か?
何かを知りたいと思って、検索バーに文字を打ち込む。
あるいは、画面に表示されたサムネイルを“自分の意思で”クリックする。
そうやって、私たちは「自ら選んで情報を得ている」と信じている。
だが──その“選択”は、本当に自分のものなのだろうか?
表示されるのは、私が欲しかった情報なのか?
それとも、**私の脳が「欲しいと感じるように設計された情報」**なのか?
私たちは、知識を探しているのではなく、
探す行動そのものを“最適化された迷宮”に沿って誘導されているのかもしれない。
あなたの思考は、学習されている
現代のSNS、動画サイト、検索エンジン、ネットショップ──
ほぼすべてが、**“レコメンドAI”**に基づいて設計されている。
その多くは**「強化学習(Reinforcement Learning)」**という仕組みで動いている。
これは簡単に言えば、あなたの“反応”をエサにしてAIが学習を深めていく構造だ。
- クリックした/しなかった
- 滞在時間が長かった/短かった
- スクロール速度や停止位置
- 「いいね」や「保存」などのアクション
これらすべてがAIにとっての“報酬”であり、
「どんな配置・表現・順番にすればあなたの反応が最も良くなるか」を、
AIはゲームプレイヤーのように学習し続けている。
しかもこの迷宮は、“あなた専用”に設計されている。
いわゆる**フィルターバブル(Filter Bubble)**の構造だ。
- 自分と似た属性・思考・嗜好のコンテンツばかりが表示され
- やがて「自分の意見が世の中の多数派」に感じられてくる
- さらに同じ方向性の意見ばかりを選び続けることで、
- 思考が“自己強化の渦”に閉じ込められていく
まさに、それは情報の“ラビリンス”──迷宮だ。
螺旋の壁に“自分の反射像”が増殖していく
この段階で、螺旋階段の風景は大きく変化している。
階段の壁面は、無数の“鏡”で覆われている。
しかも、その鏡には、自分の反射像が映っている。
似た表情、似た価値観、似た好奇心を持った自分たちが、
道を照らすように並んでいる。
でも──それは光なのか?
それとも罠なのか?
「これはあなたに合っている」
「あなたが知りたいと思っていたのはこれ」
そう語りかけてくるコンテンツは、
果たして“真の自己”に合致しているのか?
それとも、AIが作った“あなたに似せた像”に向けられているのか?
📺 語りたくなる豆知識
Netflixの「98%マッチ」という表示、あれは“視聴との相性”の確率ではない。
実際には、あなたと同じ“行動履歴クラスタ”に属する人々の傾向をもとに、**「あなたがハマりそうな度合い」**を示しているだけ。つまり、それは「あなた」ではなく、「あなたのような人」が決めた選好なのだ。
映っているのは“無限の自分”か、“設計者の光景”か?
あの鏡は、私に似た誰かの姿を映している。
だが、それは“自己理解の助け”か、それとも“意志の誘導”か?
アルゴリズムが刻んだ情報の迷宮は、
常に“正しい道”を教えてくれるように見える。
でもその道は、あなたが進みたい道だったのか?
それとも──**「進みたくなるように構成された道」**だったのか?
一面の鏡が照らすのは、
果たして無限の自分か、設計者が望む一方向の光景か?
そして、あなたがいま“知っている”と思っているその世界は、
果たして“自分が選び取ったもの”だったのか?
それとも──
見せるために“選ばされていた”ものだったのか?
第5章【深度錯覚】──心理と現実の境界線
“陰謀論にハマる人”と“考古学にハマる人”、どこで分岐した?
知的な興味に没頭する。
史料を漁り、証拠をつなぎ合わせ、失われた真実を掘り起こす。
それは、考古学者も陰謀論者も、やっていることに大差はない。
けれど──世間は、そのふたつをまるで正反対のものとして捉える。
では、どこで“知的好奇心”は「称賛される探求」と「狂信的な妄信」に分かれたのか?
どちらも「深く掘っている」はずなのに、なぜ“見ている景色”はここまで違うのか?
そしてもう一つの問いが浮かぶ。
自分はどちら側に立っているのか──本当に判断できるのか?
「深さ」は、思考の精度か、それとも思考停止か
人が何かを信じるとき、そこには**“認知的不協和”**という心理的緊張が働く。
- すでに信じていることと、目の前の事実が矛盾する
→ 人は「事実を否定」することで、自分の信念を守ろうとする。
→ その“合理化”が繰り返されると、思考の構造が自動防衛化していく。
つまり、「深掘りしているように見えて」、
実際には**“自分の信じたい世界だけを補強している”**というケースは少なくない。
さらに問題なのは、**エビデンス(証拠)ですら“文脈依存”**だということだ。
- 同じデータでも、「提示の仕方」「信頼する語り手」「周囲の空気」によって受け取られ方が変わる。
- 情報は「分析されるもの」ではなく、「意味づけの儀式」によって“再構成”されてしまう。
SNS上の議論では、証拠の提示ではなく**「証拠をどう“読むか”」が論点になることが多い。**
それはすでに「知識の探求」ではなく、信念体系の演出に変質している。
──そのとき、
“深く考えること”が、“思考停止”に擬態する。
水平に見える踊り場は、メビウスのねじれ
螺旋階段の途中には、一見「平坦に見える踊り場」がある。
そこは、視点の“転換点”。
一度止まって考え直す場所のように思えるが──
実際には、“上下の概念そのもの”が反転している場所かもしれない。
たとえば「陰謀論」も「歴史研究」も、
本人にとっては**“事実を明らかにしている”という確信**がある。
しかしそこには、たった一つの違いがある。
それは──
**「確信に至るまでの構造が、再帰的かどうか」**という点だ。
- 考古学者は「仮説→検証→反証→修正」のループを前提にする
- 陰謀論者は「前提を守るために、証拠を選別し始める」
このとき、階段の踊り場が**“メビウスの帯”**になる。
──同じ平面を歩いていたはずなのに、気づけば**「裏側の世界」に立っている**。
🌀 語りたくなる豆知識
QAnon(キューアノン)の標語 “Where We Go One, We Go All(我らは一つ、共に進む)”
これは一見、神秘的な共同体理念に見えるが、実は1996年の映画『ホワイト・スコール』に登場する帆船の鐘に刻まれた言葉が起源。
つまり、**現代最大の陰謀コミュニティのスローガンが、ハリウッド映画から派生した“創作された伝統”**だという点も、皮肉に富んでいる。
“踊り場”を選んだのは、誰なのか?
水平に見える場所。
落下が止まったように感じる“安心感”。
そこに留まることが、「冷静な判断」なのか、「次の傾きの助走」なのか。
私たちは、どこかの段階で“階段を降りる選択”をしてきた。
だがその“きっかけ”を、明確に覚えているだろうか?
──もしかすると、もう選択など存在していないのかもしれない。
踊り場を「休息の場」と見るか、
それとも「次の落下点」と見るか。
その“判断力”さえ、いつか失われる瞬間がある。
第6章【シミュレーションの囁き】──哲学的ラビットホールの最深部
「この世界は仮想現実か?」という疑問すら、誰かの“設計”か?
ふと、思ったことはないだろうか。
- なぜこれほどまでに、世界は“精巧に出来すぎている”のか?
- なぜ意識は、この身体、この時代、この社会に閉じ込められているのか?
- なぜ、**「この世界が仮想現実ではない」**と断言できないのか?
でもこの疑念そのものが、仕掛けだったとしたらどうだろう?
「この世界はシミュレーションではないか?」という疑問すら、
すでに“その世界観の中でしか生まれ得ない設計”だったとしたら?
それが、ラビットホールの“底”で待っている問いだ。
洞窟の影から、量子のピクセルへ
この問いは決して新しいものではない。
実に紀元前から、哲学者たちは**「この現実の正体」**を疑い続けてきた。
プラトンの「洞窟の比喩」
人間は、生まれながらに洞窟の中に鎖で縛られ、
後ろの炎によって壁に映る“影”だけを見て生きている。
もし外の世界(真の現実)に出ても、それを受け入れられず拒絶してしまう──
私たちが“現実”と呼ぶものは、常に誰かの意図の反映かもしれない。
デカルトの「悪意ある悪魔」
全能の悪魔が、我々の五感を巧妙に欺いていたとしたら?
──あらゆる証明すら、虚偽のプログラムだったとしたら?
「我思う、ゆえに我あり」とは、“思考”だけが最後の防壁であることを意味する。
ボストロムの「シミュレーション仮説」
近年、オックスフォード大の哲学者ニック・ボストロムは次の三択を提示した:
- 高度文明は滅びる前にシミュレーション技術に到達しない
- 技術は到達しても、文明は倫理的にそれを行わない
- すでに無数のシミュレーションが実行されており、私たちがその中にいる確率は極めて高い
現実を支える粒子が“連続体”ではなく“離散的”である可能性──
量子コヒーレンスによって、複数の状態が同時に存在し、
観測によって“確定”されるという構造。
これらすべてが、**「この世界はピクセル化された演算処理である可能性」**を補強していく。
では、もしそれが本当なら──
私たちの「落ちていく感覚」さえ、
シミュレーションの演出だったとしたら?
“上昇と下降が反転する”地点の螺旋
ここで、螺旋構造は決定的な変化を迎える。
落下していたはずの階段が、
ある瞬間から「上昇しているように見える」錯覚を引き起こす。
ただし、それは**「同じ階段を、上下同時に移動している」**ような感覚。
それは「現実を疑う」ことによって、
逆に「現実への依存度が増してしまう」──そんな矛盾の捻れだ。
ここで問いは入れ子になる。
自分が現実を疑っていると思っていたら、
その疑いさえも、**誰かに“用意されたシナリオ”**だった可能性。
👓 語りたくなる豆知識
VRのパイオニア、ジャロン・ラニアーはこう述べている。
「シミュレーション仮説の最大の証拠は、我々がそれを語ることができてしまうことだ」と。つまり、「この世界は偽物かもしれない」と思えるほどの思考自由度こそが、最も精巧なシミュレーションの証拠だという逆説である。
覗き込んでいた“その視線”の正体
あなたが落ち続けていたと思っていた螺旋階段。
その底に辿り着いたとき、
そこには何もなかった。
ただの“空洞”ではない。
もっと奇妙なものがあった。
──鏡面だ。
鏡の底に、覗き込んでいた自分の顔が映っていた。
だが、その顔はあなたの“内側”から、じっとこちらを覗いていた。
この世界は仮想現実か?
そんな問いはもうどうでもいい。
問いかけていたその“思考の輪郭”こそが、
最初から“誰かに設計されたプログラム”だったとしたら──
ラビットホールの底にあったのは空ではない。
それは、あなたの“視点”そのものだった。
第7章【螺旋の口縁】──帰還か、二度目の跳躍か
“戻る”とは、本当に可能なのか?
すべての旅の終わりには、“帰還”という言葉がある。
冒険を終え、世界を知り、知恵や記憶を持って元の場所に戻る。
多くの物語がそう語ってきた。
だが、私たちは本当に**“戻る”ということができるのだろうか?**
あの検索窓に手を伸ばす前、
あの最初のクリックをする前、
ラビットホールに足をかける前の自分に──。
経験したあとで、なお“以前の自分”を名乗れると思うのは、傲慢ではないか?
螺旋は、二度と同じ場所に戻らない。
それは円ではなく、層を積み上げる軌道だから。
“知ってしまった者”は、もう無垢ではいられない
アルベール・カミュは『シーシュポスの神話』でこう語った。
「岩を押し上げ続けるという不条理に気づいたとき、
それでも笑って岩を押し上げることができる者こそが“英雄”である」と。
螺旋とは、まさにその岩の運動そのもの。
同じ景色を何度も通るように見えて、
毎周回、ほんのわずかに“異なる階層”へ進んでいる。
そして、いったん深くを知った者は、
たとえ同じ場所に戻っても、そこに流れる空気が「違う」と感じてしまう。
それは、**思考という名の“帰還不能性”**だ。
“導いていた白ウサギ”の正体
旅の始まりには、たしかに“白ウサギ”がいた。
アリスを導き、ネオを誘い、あなたを検索窓へと手招きした存在。
しかし螺旋を登り直し、口縁にたどり着いたとき──
その白ウサギの背中を、どこかで見たような気がする。
振り返る。
そこにいたのは、あなた自身だった。
白ウサギは、常にあなたの“背後”を歩いていた。
最初からあなた自身の影であり、
あなたが気づいていなかった“次の層の自分”だったのかもしれない。
導かれていたようでいて、
ずっと自分の足で歩いていたことに気づく瞬間。
それこそが、螺旋の最上層に浮かび上がる“もう一つの視点”だ。
🧠 語りたくなる豆知識
人間の**内耳(蝸牛)**は螺旋構造になっており、
音の高低、重力の傾き、空間の回転といった感覚は、この螺旋の機構によって知覚されている。つまり、私たちは生理的にも、螺旋で世界を感じている存在なのだ。
“持ち帰れるもの”は、どこにある?
戻ってきたのかもしれない。
あるいは、元いた場所に“似た層”にたどり着いただけかもしれない。
だがあなたはもう、知ってしまった。
この世界にはラビットホールがあるということを。
視点はねじれ、螺旋は誘い、思考は戻れない。
だからこそ、何かを持ち帰りたくなるのかもしれない。
かつて自分が歩いた証を、手元に置いておきたくなるのかもしれない。
🌀 もし、この旅の記憶を“触れられる形”で残したいなら──
小さな螺旋の造形が、あなたの机上に**“二度目の入口”**をそっと開けるかもしれない。
螺旋は終わらない。
なぜなら、それは**“問い”の形**をしているからだ。
それが“ただのウサギ”に見えるなら
この物語を、すべて読んだあなたにとっては、
もう世界の見え方が少しだけ変わっているかもしれない。
でも──机の上に置かれたこの小さなフィギュアを、
何も知らない人が見たなら、きっとこう言うだろう。
「可愛いウサギだね」と。
それでいい。
知らなければ、ただのウサギ。
けれど知っている者には、それが**“なぜここにいるのか”**がわかる。
その丸い目、その手の角度、まるで偶然のように現れる姿。
すべては、**あの旅の始まりを思い出させる“合図”**だ。
──忘れた頃に、また引き込まれるように。
だからこれは、飾るためのものではない。
むしろ、そっと置いておくだけでいい。
誰にも気づかれずに。
けれどあなたは知っている。
“もう一度だけ、あの螺旋を降りていける”ということを。
詳細・購入案内

- 名称:Rabbit Hole・フィギュア(アニメ調)
- 素材:高精度レジン出力/手仕上げ/未塗装またはクリア塗装モデル(選択式)
- サイズ:机や棚に飾りやすいコンパクト仕様(例:高さ約6.5cm)
- 価格:販売ページをご確認ください